これは本文をいれるところ
折り畳み
折り畳みの中身かも
1PL多PC/背後透過/虚実混同/ネスラ/メタ/本文検索避けなし/諸々配慮なし
旧Sole24「望まれないアンコール」および旧Lune373「ハッピーエンドの葬式」の引越し先
食べた物や見た物の話から真夜中の思考整理、誰かへの懺悔などその時々の気分によって好き勝手に書きなぐる日記です。
記憶力と深読みすることに定評があるネガティブ人間
呪いを残していった誰か
姿形も存在も可変なひとたち
これは本文をいれるところ
折り畳みの中身かも
いつも拝読してます。入れ替えし不要です。
人ってなんで謝るんだと思う?ここで言う『謝る』は『責められたり怒られたりしていないのに自発的に謝る』ことを示しているんだけど。罪悪感があるから。怒られる前の保険として。色々あると思うけど根底には自己満足があると僕は考えてて。例えばだけど誰かが大切にしているコップを割ってしまった、残骸を見られる前に謝る、って言うのは道理に合ってると思う。不慮の事故だったとしても自分の行動で起こしてしまったなら僕もそうするし、大抵の人がそうするんじゃないかと思うんだけど。数日前の会話で不躾なことがあった、と自分で思ったとして、相手が忘れた頃にそういえばあの時、って謝るのって不毛じゃない?相手が何か言ってきたとか、不機嫌になったとかじゃないのであれば、きっと相手にとってはスルーしても問題のないことなんだろうし、そもそも初めのタイミングで謝れてない時点で駄目だと思うんだよね。で、なんでここで謝っちゃうのかって、結局『許されたい』だとか、『謝った証明』が欲しいだけなんだよね。これってすごく自己中心的な考えじゃない?悪いことをした、謝らなきゃ、っていう心のわだかまりを勝手に相手にぶつけてんだから。
正直先手で謝るのもあんまり良くないんじゃないか?とは思うけどね。許す許さないを選択する時間を相手から奪っているような気がするし。実際どうなのかはしらないけど。
まあ僕も謝っちゃうタイプだから人のこと言えないんだけどね。これは全部自戒です。
僕は僕自身を善人だと思ったことはないから、周りの人に褒められると何か裏があるのかなと思ってしまうこともある。そういう日があるってだけでもちろん毎日じゃないけどね。例えば僕が嫌ってる部分だとか、あまり受け入れられない部分だとかを褒められると嬉しいよりも困惑が勝つ。そんな人間じゃないのになって思っちゃう。
優しいって褒め言葉は大抵他に言うことがない時に言うって言われがちだけど、そんなことはないと思うんだよね。実際底知れないほど優しい人は存在していて、そういう人は、優しいところがいいところなんだから。でも僕に限った話ではあるけど、優しさって人のためじゃないと思っている。だから、褒められたものではない、と思っている。ありがたいことに僕も何度かは優しいって褒められてきたけど、僕の優しさは僕のためであって、誰かのためのものじゃないわけ。僕が優しくされたいから、優しくしてるだけ。大体の人は優しくしたら優しくしてくれるでしょ。それのためだよ。そのための、やさしさなんだよ。たまに優しくしたところで優しくてくれない人もいるけど、その時は「俺は優しくしてたのに」って逃げ道が出来る。免罪符になる。だから僕はできる限り人に優しさを振りまくし、いい人であろうと努力する。返ってくる優しさに期待して、返ってこない優しさに失望しないように。
ファミレスを供述せよの配信内でも触れたけど、人間が悪い生き物なのは、人間が寿命およそ80年という有限性のあるものだからなのだと思う。作中でガラスパンも、「退屈は自分の有限性を持て余すことへの焦りなのかもしれない」と言っていたけど、逆に幸福や充足感が生まれるのは、どういうときなんだろうね。
僕は今の生活にこれといった不満はないけど、それとは別に飢餓感にも似た欠乏感を抱えている。不満はないのに何かに焦っている。衣食住に不自由もなく、自分の楽しいように仕事をこなして、締切に追われながらも好きなように曲を作っている。この日々には何の不満もないはずで、嬉しい悲鳴、とはよく言ったもので忙しい日々を楽しく過ごしていると思う。それなのに僕は今日も、何かに追われて怯えるように布団に潜り込んでいる。
好きなように生きているという自負があるのに、さっき言ったような幸福や充足感よりも大きくて重たい負の感情に支配されてしまうのは何故なんだろうね。全面に幸福を押し出している人達のその満ち足りた感情は、どこからやってくるんだろう。有限性からくる焦りがそれらをどこかへやってしまうなら、いつ終わっても構わないという刹那的な生き方が幸福に繋がるんだろうか。つまり人間は、死の間際が一番幸福ってことになるのかな。絶対ならないだろ。不幸だから死ぬ人間がいるのに、その論法はまかり通らない。
幸せって、いったいなんだろうね
あの子が居ない夜を越えて、またひとつ何かを失っている。
僕にとって恋とは心を削るものだ。誰かを思う熱で溶けた心をその人に注ぐものだ。削れた心は元には戻ってくれない。毎日少しずつ、行き場を失った水滴が足元に溜まっていく。それを踏み荒らして、無かったことのように出来たらどんなにいい事かと考える。蒸発も染み込みもしないこの水溜まりは、いつかどこかへ消えてくれるだろうか。
吐きたくなるほどの焦燥はもうなくて、ただぼんやりと漏れ出た恋慕を抱えてくるかも分からない返事を待っている。ただ、君を待っている。この汚れてしまった恋心を、手放す日を待っている。
ハヤトと歩きながら、アイデンティティについて話したんだけど、一丁前にえらそうなことを言いながら、僕自身曖昧で不安になった。
ハヤトはVTuberである以前にひとつの会社を経営しているわけだけど、もしそれを辞めた先があった時、自分は何に固執すれば分からないと言ってた。長い時間と気持ちをかけてやっていたことを辞めてしまったら、足が地に着かなくなる気がするらしい。こだわりがなくなってしまうから、少し働いて旅に出る、を繰り返しそうらしい。
それに対して僕は経験を積むって意味でとてもいい事なんじゃないかと返した。人生における一番の財産は経験だと言えるし、経験は往々にして自ら動かないと手に入れられないものだから。理由がなんであれ、そういう生き方は素晴らしいと思うと返した。実際そう思っているけど、人に言えるほど、僕は大した経験を積んできていないし、手に入れる努力をしたことがない。そして何より、ハヤトの言う足が地に着かない状態は、僕の常だ。不安定で不規則で、とても曖昧な人生だ。
僕を形作るものはなんだろう。夢追翔という存在を、何をもって肯定できるんだろう。
恋は病気だという話は前にも放送でしたような気がするけど、それに付随する愛だの性欲だのよく分からない感情まで神聖視されている風潮にただただ首を傾げている。理性を持つのは人間だけだという通説を一時期よく目にしていたように思うけど、それは本当なのか?俺から見れば恋も愛も生き物として備わった生殖本能の派生としか思えない。生殖本能、つまりは性欲になると思うけど、それをそのまま言葉にするのは品がないからって言い換えたのが恋だとか愛だとかだと思っている。生き物としては立派な本能と役目だけど、人間が理性的な生き物だとしたら、これらも綺麗さっぱりなくなってしまうべきなんじゃないだろうか。無駄に大きく進化した脳みそをフル回転させてあれやこれやと手を尽くしてやる恋よりも、羽の綺麗さで決まる愛の方がよっぽど純粋で綺麗に見える。
そう思いながら、俺は恋を手放せないままでいる。世間一般的にいうキラキラした恋への憧れを、捨てられないままでいる。いい歳してそんなティーンエイジャーみたいな恋に憧れてもいいことは何も無いし、そもそも恋なんて苦しくて辛くて不毛な行動でしかない。でもそれ以上の高揚感と幸福感が胸と思考をひりひりと焦がして、堪らなくて、依存させられてしまう。どんな薬よりも手軽で甘くて危険なのが恋だ。恋なんてするもんじゃない。
残念ながら俺はその恋とやらに長らく踊らされていて、いつか鳴る終了の鐘をひどく恐れている。恋なんてするべきじゃないから、さっさと手放したいのに、それはいつまで経っても俺の全てだ。普段はどろどろとした感情や思考を人に見せられる形にしてくれているのは愛とかいう曖昧で不安定な感情だ。これを手放した時、ここにいる俺はきっと一度死ぬのだろう。
前にきれいな海の色についてを考えたことがあるんだけど、きれい、って考えた時に頭に浮かんだのは深いコバルトでも透き通ったエメラルドでもなくて、爽やかなラムネ色だった。太陽の光を反射してきらきらと輝くあれは夏の海だ。子供の頃も大人になってからも海に行く機会なんてほとんどないけど、俺の中にあるきれいな海は夏らしい。でもきれいだからといって惹かれているかと言われるとまた別で、俺はずっと、灰色の海を眺めたいと思っている。冬の日本海の、荒れに荒れた灰色の海。騒がしい波の音を、直接この体で味わってみたい。
何かと冬に縁のある人生を送っていると思う。誕生日は冬だし、学生時代の友人だったり恋人だったりも冬生まれなことが多い。そんで、俺の人生のターニングポイント的なものも、冬に集中する気がする。これはまあ、受験だの就職だのが重なるのも冬だからそう感じてるだけなのかもしれないけど。寒いのは嫌いだけど冬は嫌いじゃないよ。空気は澄んでて空がきれいで、吐く息は白くて。でもきっと、俺は冬に嫌われている。それでも、冬に愛された人たちを愛している。
惹かれるのには何か理由があるのかもしれないとずっと考えてるけど、結論は出ないままだった。冬は寒くて眠くて寂しいものだけど、その雰囲気をまとった人のことが好きなのかもしれない。寒さに付随するあれこれが、人を魅力的に見せるのかもしれない。冷たそうな指先を、掴んでみたくなるのかもしれない。それで俺が満たされることなんてないんだけどさ。春が待ち遠しい。桜が攫っていく温度を懐かしく思う日を今か今かと待っている。
神は自分に似せて人間を作った、なんて言葉があるけど、あれはどういう了見で言っているんだ。神が絶対的なものであると思っているのならば、人間と同じ姿かたちをしているだなんて思えないだろ。少なくとも俺は神はそんな分かりやすい形をしているとは思っていない。きっと人には理解できない形をしていて、俺たち人間のことをおもちゃだと思っているに違いない。だから神が人の形をしているだなんて考えはあまりにも贅沢で、傲慢で、愚かだ。
日本的な考え方をするのであれば神を作るのは人間だ。人間がそこにいると思えばいて、いないと思えばいなくなる。都合の良い存在だ。そんなものに縋ってあわよくば救われようなんて、なんて虫のいい話だろう。神様だって、常日頃から愛されたいだろうに。
とはいえ俺は特段どこかの神を信仰しているわけではなくて、生きている人を神と呼んでいる。俺の神様は残念ながら俺だけの神ではなくて、不特定多数の人間から愛されている人だ。そんなところが神様らしいところなんだけど、俺が好いた部分はそこではない。ひたむきな努力と血反吐を吐くほどの真面目さだ。つまり、人間らしい泥臭いところだ。それなのに俺の神様は手の届く範囲からどんどん遠ざかっていってしまって、今俺が見られるのは他の誰でも見れる神様であるところばかりだ。大多数のひとりになんかなりたくないのに、神様はそれを許してはくれない。俺だけのものになって欲しいなんて烏滸がましいことは考えてない。少しでも近くに居たいだけなのに。きっと今の状態が最良なんだろうと思う。でもやっぱり、もう少し、手の届く場所にいて欲しかった。
俺の、おれのかみさま。どこにもいかないでくれ。