「Vtuberからみる死生観」
急に重たいタイトルに驚いた方もいるかもしれないが、そう構えずいつもと同じテンションで読んで欲しい。1stエッセイで述べたように僕は配/信外、つまりは僕に初めて触れる人間が知る事が難しい媒体では新規のコンテンツを産まないようにしている。しかしこれはエッセイになり損ねたモノであると同時に、君たち虚/空/教の信/徒への信頼感からこの文を書くに至ったのである。
僕はバ/ー/チャ/ルに生きており、そして永遠に16歳である。それはある種の不死身であると僕は呼んでいるものの年齢が蓄積しないだけで経験は蓄積するのだ。つまりバ/ー/チャ/ルという次元で僕は僕の人生を歩んでいる訳だが、生というものにはいつだって終わりがつきまとう。その終わりを強く意識するかしないか、させるかさせないかは人によるところだと思うが、僕はというと終わりを見せない美学の方を選んだ。これに関してはどう解釈してもらっても構わないが、確実に言えるのは僕が趣味でV/tu/berをしているなんて宣っているのもここが所以だ。僕の人生を届けたいなんて言おうものなら、僕は死ぬまでパソコンの画面に向き合って、つまりは虚/空と向き合って話さなくちゃいけなくなる。そんな人生は嫌だ!!!!……まぁ、そんな具合だ。
では、ひとつ配/信/者という枠を取っ払ってただの男子高校生としての剣/持/刀/也の死生観はどうなのかというと“隣人”この一言に収まる。は?剣/持暗くね?とか思っただろうか。いや、これには理由があるのだ。死というものは、人によっては救いと捉えるだろうし、人によっては脅威となりうる。そして遺された人間にとっては少なからずの試練となる。
かの有名な哲学者であるニーチェは「神は死んだ」と言った。それと同じで死も向き合い続けていると、死そのものの価値が死ぬのだ。特別視出来なくなる。救いというにはあまりにも死ぬまでの工程が煩雑過ぎるし、脅威というには身近過ぎるし、試練というには強大過ぎる。そんな思想から僕は、隣人として付き合っている。良い顔をする時もある、牙を向く時もある、意識しない時もあるしする時もある、時には大きな影響を受けたりもする。そんな隣人のような死と、僕はいつだって生きていきたいのである。
今夜は久しぶりという事で、少し重ためでしたが、いかがでしたでしょうか?これを読んでくれているそこの君の死生観も知りたいところです。それでは良/い/夜/を。