「1/fのゆらぎ」
1/fのゆらぎという言葉を知っているだろうか?主に蝋燭の火なんかに使われる言葉で、規則性と不規則性が混ざり合っている「心地良いゆらぎ」の事だが、これを前項で述べた僕の未完成の美学と絡めて少し深掘りしてみようと思う。
何故このトピックについて掘り下げようと思ったのかというと先日知り合いから「剣/持さんにとって未完成な人が完成したら飽きるんですか?」と聞かれた事に起因する。これに対して僕は完成なんてモノはそもそもないんじゃないのか、と返した。人間が“完成する”というのはそれぞれ一意見があるところだと感じるが、僕にとっての完成とはなんなのか。それは「自分の心のゆらぎを1/fのように眺められる事」だと思う。それはメタ認知的に自分の心を観測するという意味ではなく、ゆらぎそのものを自然現象的に受け取る且つ楽しめるという意味だ。
そういう人間は、1stエッセイで述べたようなネガティブな事柄を経験として捉えやすい心理状態にあると思う。そしてこれは完成はないというところに帰着する。ゆらぎのない人間は(そんな人が本当に存在しているかは分からないが)側から見れば、一見完成しているようだが、この状態を僕はネガティブな経験に弱いと捉える。つまるところ僕が言いたいのは完成していない事、未完である事を受領するという行為にひとつ人間としての完成が存在しているという事だ。
僕は兎角、メタ認知にはめっぽう強く、自分は今はこんな風に見られているんだ、捉えられているんだ、という部分を特に労もせずに思考出来る。しかしそれは前述の通り“楽しむ”という視点に少し欠けているのだ。
「あぁ、自分は今弱っているな。それでも楽しいな」そんな思考回路がぽっと、それこそ蝋燭の火のように浮かんだ時、それはきっと完成している。しかしそれには飽きが来ない。なぜなら体外的には未完成だから。
僕は僕のメタ認知的強みを活かしつつも、このひとつの完成形を目指してこれからもエンターテイナー剣/持/刀/也として走り抜けていきたいと思う。
教祖として君臨していない僕の人間らしさみたいなものを一つ開示出来たところで、今日はこの辺りで終わりにしよう。それではい/い/夜/を。